競馬の伝説のレース集

競馬レースのまとめを解説していきます。年代別、騎手別、レース別にまとめてある動画を解説付きで詳細に説明しています

武豊騎手のベスト騎乗7選

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武豊騎手のベスト騎乗7選です。
特に若い頃の騎乗は必見です。20代そこそこでこんな騎乗が出来たのは今でも武豊騎手だけです。

 

2001年 香港ヴァーズ
ステイゴールド

レースは、ゴドルフィンブルーの勝負服を身にまとったL・デットーリ騎乗のエクラールが向こう正面でロングスパート。最後の直線でさらに後続を突き放しにかかった。

「コーナーを回ったとき、エクラールとの差は10馬身。普通なら絶対に届かない距離です。勝ちたい、勝たせてあげたいという気持ちはありましたが、まさか勝てるとは思っていませんでした」

しかし、その絶体絶命の場面から、ステイゴールドは自らの脚で、キセキを起こした。

 

2000年 菊花賞
エアシャカール

残り600mを過ぎ直線に向いた。
エアシャカールは猛然と先頭に立った。
しかし、気性の悪さからなのだろうか抜け出してから気を抜いてしまった。
それに気づいた武豊は再びエアシャカールにやる気を注入する。
その間に後ろから、アグネスフライトと河内洋が飛んできた。

馬体を併せた両馬。
追い比べを始める兄弟弟子。
100mほどの叩き合いの末鼻面を並べてのゴール。

どっちが勝ったなど一眼ではわからなかった。
しかし、それをわかっている男がいた。
アグネスフライトに騎乗していた河内洋である。
ゴールの瞬間真っ先に拳を突き上げた。
着差はハナ差。その差わずか7cmであった。

 

2001年 エリザベス女王杯
トゥザヴィクトリー

2001年のトゥザヴィクトリーはこれまで逃げ、先行馬だった同馬を一転して後方待機させ、直線で追い込んで差しきるという芸当を見せた。

同馬は1年近く勝利がなく、3月のドバイワールドカップ以来という長期休養明けで見せた芸術的な騎乗は「ユタカマジック」と評され、

まさに全盛期の武豊騎手に相応しい好騎乗だったといえるだろう

 

1988年 菊花賞
スーパークリーク

菊花賞への出走権をかけて挑んだトライアルの京都新聞杯で数回の不利を受けて敗退したスーパークリークは、

最後のクラシックに向けて、賞金不足から出走が危ぶまれていた。

それでも、強運をいかしてゲートインを果たすと、当時19歳の天才ジョッキー武豊騎手を背に淀の3000mを鮮やかに駆け抜けた。

2着馬ははるか後方におかれ、

1番人気に支持されたヤエノムテキは血のなせる距離の壁の前に馬群に沈んだ。

 

1989年 桜花賞
シャダイカグラ

そして運命の発走時刻。
ファン達がその目を疑うような事態が起きたのは、ゲートが開いてすぐのことだった。

シャダイカグラが出遅れたのだ。
枠順の不利が0.5秒分にもなると言われたコースで更に出遅れとなれば、その差は致命的である。
方々から悲鳴にも似た声が上がる場内だったが、その中でただ一人冷静沈着な男がいた。

鞍上の武豊である。
武はシャダイカグラを後方に置いたまま最内に移動させ、そのまま馬群を縫うように進出を開始した。
その若く小さな背中には、G1という大舞台で人気に応えねばならないプレッシャーや、出遅れによる焦りなどは微塵も感じられなかった。

最下位でのスタートだったシャダイカグラは内ラチ沿いの最短経路を走り続け、気付けば3コーナーの時点で順位は中ほどに。
4コーナーを回る頃には先行集団を捉え、十分に勝利を狙える位置で最後の直線を向いた。

 

1993年 皐月賞
ナリタタイシン

それはまさに、目の覚めるような末脚だった。

上がり3ハロン推定タイムが35秒を切ったのは、

18頭の出走馬のうちナリタタイシンだけ。

他の馬とはレベルの違う切れ味で、叩き合いながら粘る先行各馬を鮮やかに交わし、

ビワハヤヒデをクビ差だけ差し切って1着となったのである。

 

1996年 菊花賞
ダンスインザダーク

橋口は思った
「終わった…」と

この時既にポジションは12番手。
絶望的な位置であった。
しかし、武豊はそこから自らの手腕を発揮するのだった。

追い出しを開始ししたがやはり前が壁になっていた。
そこから強引に外に持ち出し、そこから鬼脚を発揮し上り33.8と長距離の常識では考えられない上がりを発揮し勝利。
見事、菊の大輪を咲かせたのであった。

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